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兄は病気を患っていた。心の病だ 躁鬱といえば聞こえがいいが、精神分裂? 統合失調症?具合が悪い時は何を言い出すか しでかすか分からなかった 元を正すとオヤジがそういう病気で 入退院を繰り返していた時期があったので 遺伝的要素もあるのだろうか 高校の時兄のバンドはヤマハの主催する バンドのコンテストで予選を突破 中四国関西から集まった本選大会へ そこで兄は個人賞としてベストギタリスト賞を受賞 実際誰の目から見ても凄いギターを弾く 高校生だったと思う そんな肩書きを持って上京 和光大学へ進学しつつ、そこのサークルの メンバー達とバンドも結成 順風満帆に行っていると思っていたが 欝の症状が出て、大学は中途退学 その後、病状は悪化し、健夫24歳のとき 環七で粗相をしてくれた!世田谷線を止めた これは頭のイカレタ奴のやった事として 法的金銭的お咎めはなかったらしいが 当然強制入院だ! このあたりの経緯は後日、本人が書いた 自伝的私小説「俺の病院には柵がある」に詳しい 半年位の入院生活を経て 一旦岡山で療養、数年後だいぶ状態も良くなった頃合に 再び上京、一時はバイトもしたり、バンドも順調にやっていた 兄の名曲達を俺が歌い、健夫のギターが火を吹く Rockhouseというバンドでは、渋谷ラママ、下北屋根裏 芝浦インクスティックと結構ライヴもやった。 そのバンド解散後は、和光の連中を集め その名もMIYAKEという兄弟バンドも! しかし、やはり病気は決して完治する物では無かった 何度か支離滅裂な状態に陥り 入退院を繰り返し、結局親の説得に応じ 岡山に帰る事となった それが2000頃の話であったであろうか?  ・・・・・・     
岡山に帰ってきてからの兄健夫は  やはり躁鬱の繰り返しで   調子の良い時はご機嫌にギターを弾く   悪い時は家でTVの前にかじりつきぼーっと一日を過ごす   といった毎日だったようだ   俺が東京に見切りをつけ岡山に帰ってきてからも   同じ様で、亡くなる直前はかなりいつもハイテンションだった   毎晩、女の子の居る飲み屋に遊びに行ったり   仕事じゃ!と言っては車にギターとアンプを詰め込み   母が止めるのも聞かず、夜な夜な何処かへ出かけていた   車で出かけていたのでお酒は飲んでいなかったようだが   躁鬱を安定させるためにかなり大量の薬はのんでいたようだが     車を駐車場に入れ、カードを紛失   出口の遮断バーを車に傷が付かないよう   ゆっくりと乗り越え棒をへし折り破損   その様子が防犯カメラに写っていて   警察から電話がかかってきたことも  「頭がおかしいから何をやっても許されると思ったら大間違い やで〜」   おまわりに事情聴取を受け散々怒られていたみたいだ  結局駐車場の管理会社に俺が詫びに行き   弁償代17万を払うはめになった   去年2月4日もひとり何処かへ出かけていた   警察から電話があったのは21時頃だろうか   「おたくのお兄さんが岡山の駅前で     泥酔した様な状態で寝転がっているので    迎えにきてくれ」 と   その時点で俺は酒を飲んでいたので   迎えには行けない、警察で家まで送り届けてくれないか?   と頼むと    「警察はタクシーじゃねえ!」 との返答   しょうがないので,家の住所を告げ着払いで   タクシーに乗せてと警察に頼んで、それは了承された 駅から家までは15分程度  しかし、兄が帰ってくる様子はなかった   そうしてる内に又警察から電話だ    おたくのお兄さんがタクシーに乗って   西崎の自宅を通り過ぎ大安寺あたりで降りた  だがフラフラ足元がおぼつかない状態で用水路のドブに落ちたと   一旦病院に搬送するので一緒に付き添ってくれと  慌ててその現場に行って見ると  すでに救急車は走り去っていた  結論を言えばその時点で兄はドブの泥を喉に詰まらせ  窒息死していた訳だが、兄を乗せたタクシーの運転手が  警察に通報しその現場はパトカーが5、6台いて  騒然となっていた、その時は状況がまるで把握出来ず    タクシー代を支払い、警察がすぐ病院に行けと言う意味も分からず  一旦家に帰り眠りについていた    その直後日付が変わった頃、今度は搬送先の病院から電話がかかってきた  「お兄さんが亡くなられました・・すぐ来てください」と   俺と母は事態がよくわからないまま病院に駆けつけた Topへ戻る
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